Notice: Nifty-Serve [Patio]Scouting Worldに、神奈川県連の坂本 正志氏が掲載 されたものです。(1995.11.13) ------------------------------------------------------------------------  これは、神奈川県連の矢島巌氏が米寿を迎えたジョン・ミトワさんをお祝いす る集まりで配布したものを、氏のご了解を頂いて転載したものです。 米寿のジョンさん 大いに語る ミ ト ワ 十 話 は じ め に ジョンさんから、米寿までに何か書いてほしいと頼まれたのは一年も前のこと。  そのうちにテープレコーダー持って伺いますから、載せたい話いくつかまとめ ておいてくださいよと、好機をねらってはいたものの、両者タイミングが合わな いまま、十月に入ってしまった。  そして十月十五日、ジョンさんインタビューの日。  つまらない先約の遅れに気を揉みながら、そごうの京樽でジョンさんの大好物 を求め、一〇三番のバスで山元町二丁目に向かって下車約五、六分。首を長くし て待つミトワ邸に着いた。 ジョンさんの独り暮らしは質素そのもの。  最初は、話の内容や姿をビデヲ撮りしようと始めたのをやめ、テレコに切り替 えたが、そこはジョンさん。筋やメモとかアルバムや資料類も無いまま、八十八 年間のメモリーをたぐり、前後にかかわりなく湧き出す大小のきらめきを引き出 すことに決めた。  しかし、とどまることのない話の筋を年代や節目ごとにまとめ、今度は見せて もらえなかったがジョンさん秘蔵の資料と比べ合わせるには、今後何回もアプロ ーチしなければならないだろう。 そういうわけで、「ジョンさん 激白 =vの二時間テープから主だった十の 話を筆者の独断で選び、聞き違いや誤字をご当人に確かめる暇もないまま、ジョ ンさんが敬愛する三島元総長の「スカウト十話」にならった「ミトワ十話」とし てみた。 一応、急拵えの「稿本」としてお目通しいただき、そのうち秘蔵資料を収めた 「定本」を目指したいと思っている。  読者諸兄に八十八歳の少年ジョン・ミトワ節の熱と情が伝われば幸いである。 平 成 七 年 十一 月 三 日   や じ ま い わ を はじめに 第 一 話 グリフィン隊のころ 第 二 話 あれこればなし 第 三 話 「祖国」と「母国」 第 四 話 丸の内・・戸塚・・韓国・・そして、 第 五 話 ボトル地震計 第 六 話 「アイマイな日本」と「私」 第 七 話 後藤新平総長と三渓園のスカウト大会 第 八 話 裏方を往く 第 九 話 オールドスカウト 第 十 話 ほんとに大切なもの 第 一 話 グリフィン隊のころ ぼくがボーイスカウトを始めたのは、グリフィンさんの隊だった。大正六年に 入ってそこには、半年ぐらいしかいなかったけど。 それは、セントジョセフにボーイスカウトができたから、そこに転籍したから だ。十歳の時かな。その時分は今みたいに面倒な規則なんかなかったから、学校 にできたからそこに移ったんだ。 そこに大正十年の震災までいた。 そのころ、家は根岸の山の下の八幡様のそばにあって、ぼくが生まれたのは、 東京・・・・江戸は日本橋。親父はその当時、学校をやってた。まあ今でいう塾かな。  ぼくは体が悪かったから、それで空気のいい根岸に越してきたんだろう。 そのころの根岸は海岸で、なにもなかった。今のバス通りも三分の一ぐらいし かなくって、車なんて一日に一台か二台、ほとんど見たこともなかった。だって、 横浜に十台ぐらいしかなかったんだから。 セントジョセフは震災で半分焼けて、神戸に行っちゃったんで、ぼくは東京の 大井に越して、そこのアメリカンスクールに入った。  そうしたら、大正十三年の一月十五日に震度六ぐらいの地震があったんだ。  そのとき、うちの親父は上海にいたんだけど、もう日本は危ない。上海に来い っていうんで、上海に行ってそこの学校のボーイスカウトに入った。  当時、外国人ばっかの学校は上海には三つあって、フランス系のセント・ザビ エールスクールと、英国のほうの学校はトーマス・ハンベリースクール。もう一 つアメリカンスクールがあったけど、家から遠かったんで、英国系のハンベリー に入ったんだが、大正十四年の暮れには日本へ帰ってきたから、上海暮らしは二 年半ぐらいだった。 それから横浜のセントジョセフに戻ってきた。 第 二 話 あれこればなし 大正って言えば、面白い話があったな。 大正が終わったのは十五年十二月だけど、ぼくは大正十六年発行の本、見たこ とあるよ。それは、川崎にいたOBが持ってたBSの手帳でね、硬いボール紙の 表紙裏に大正十六年発行とプレスしたところを消して、筆で昭和元年と直してあ った。だから十五年のうちに翌年から売り出す分を大量に印刷していたんだろう ね・・・・。 そういう話、日連の出版関係が聞いたら跳びつくだろうって言うけど、今まで だって何回も話してきて何の反応もなしだったよ。いま、KIさんだってND君 だってKA君だって日連にいる古い職員はみんな知ってるから、改めて頼めば書 くかも知れないけれど、前はダメだった。書いたって自分のメリットにならない って。  ホントは、今の人達が知らないいろんな話題でスカウト運動が開ければいいと 思うんだけど、そう言う考えはなかったんだ。  戦後の三渓園でやった第一回の大会。あれは、こないだ横浜のスカウト運動四 十五周年祝賀会の時に来た当時の横浜市警少年課にいた小田さんとぼくが全部面 倒見たんだよ。当時は毎日のように市警に出かけ、彼と懇意になっていろんなこ とをしたな。 戦後古い横浜駅の頃、あそこにシューシャインボーイがいっぱいいたの。それ を小田さんとぼくとで千葉県の八街(やちまた)にある少年達の施設へ連れて行 くんだけど、みんな十歳か十一歳かでも自分で稼いで食べてちゃんと生活のやり かた知ってるから、一週間ぐらいでみんな逃げ出してしまうんだ。  十歳ぐらいで立派に生活の仕方知ってたんだよ。 ぼくの道楽は、「宝くじ」を毎週買うこと。数は十枚、ぼくは飲みに行かない から毎週買ったって安いもんだよ。  年に二回か三回は一万円当たるけど、これまで十万円が二回当たった。 外国の宝くじは、買うのがめんどくさいから日本のを買うんだけど、今は足が 悪いから人に頼んで買いに行ってもらってる。 今はちょっと外に出かけて食べたりするとすぐ千円や二千円かかるけど、それ なら週に千円ぐらいで楽しい夢を買えるんなら、安いもんじゃないかな。 宝くじに当たると、一万円までは売り場で換えてくれるけど、それ以上は第一 勧業銀行へ行って書類にハンコ押さないともらえない。 ジャンボ宝くじ?・・・・当たったら前後賞で一億三千万円。わからないよ。  最近の人は柔らかいものばかり食べるようになったけど、戦争前とか昔は今み たいに肉なんかあまり食べなかった。けれど、今の連中はハンバーガーとか何で も柔らかいものばかり食べるから噛む力が四分の一ぐらいしかないんだって。噛 むということは、脳の発達に一番効いて記憶力にくるんだって。戦前は、納豆な んか高級食の部類だったもの。  馬車道の角の安政六年創業の寿司屋その隣の和菓子屋そのまた隣のお茶屋、み んな横浜で一番古かった。そこの前の親父はぼくの友達でだったし、あの近所は ぼく達の遊び場所だった。 戦後二、三年のときオデオンのそばにフライヤージムがあって、そこでボーイ スカウトのクリスマスパーティーをやったことがあるけど、それを、横浜市の職 員とぼくの二人で八ミリ映画に撮ったのあったけど、どうなったかな。 第 三 話 「祖国」と「母国」 戦争中は、抑留されていた。親父はアメリカにいたけど、ぼくはおふくろと二 人で横浜にいた。 戦争が始まって、横浜にいた外国人は、始め二つに分かれて抑留された。それ は、警察署の管内によって分けられたんだが、加賀町警察管内の人は、新山下の ボートハウス、今のヨットハーバー。山手警察管内にいたぼく達は、根岸の競馬 場にあったバンザイハウスだった。 バンザイハウスって言うのは、競馬の馬主がお客さんを接待する広さ十二畳ぐ らいの部屋がずっと並んで、中庭が庭園みたいになってて、馬主達は勝つとそこ でバンザイってお祝いしてたんだろうな。ぼくらはみんな、そこにいた。 ところで、戦争で抑留された人はアメリカにもいて、それをアフリカ東海岸の 今のマダガスカル島のロレントマラカスという港で交換することになった。ぼく はそれで帰ろうとしたんだけど、アメリカに帰れなかった。後から聞いた話だけ ど、あんまり日本のことを良く知ってる人なんか、船が途中でボッカンして、何 を言われるかわかんないから・・・・その時はそれを知らなかった。  そして 戦争が始まった翌年、日本に最初の空襲があって、その年の秋、山北 の奥の内山って言う所に移された。そこで暮らしたのは、全部で四十四、五人だ ったかな。 抑留者の日常生活は、仕事も強制じゃなかったけど、炊事用の薪が必要なので みんなグループで内山村の上にあったクヌギ林へ採りに行った。 ぼく達が行くと、巡査が後からついて来るんだけど、以前よく家にも来ていた 懇意な巡査部長だった。その部長が毎日ついてくるから、一句出来ましたって川 柳を差し出した。    足 柄 や 金 時 な ら ぬ 抑 留 者  って。そうしたら笑ってたよ。また、時には相撲をやって巡査部長を負かしたり・・。 だから抑留所にいても、ぼくは淋しくなかったし、何にも不自由もなかった。  これは後から知ったことだけど、そのときミネソタ州ミネアポリス生まれの親 父は向こうにいて、それを追った二番目の弟は日本では抑留されなかったが、向 こうで抑留され日本のこといろいろ調べられたって。 ずっと前に、テレビ映画で「ふたつの祖国」っていうのやってたけど、弟は丁 度そんなで、そのことをヘンリーが「祖国と母国のはざまにて」という本に書い ている。 それから、終戦で抑留所から出てきたけれど、ぼくたちが「日本が手をあげる」 のを知ったのは、八月十日だった。 というのは、抑留者に対する国際的な支援団体があって、スイス、スエーデン、 ノルウエーが代表で、それが一ヶ月に一ぺんぐらいきて我々の代表に、「日本は ポツダム宣言を受諾したから、もうすぐだよ」って言って帰ったから。 第 四 話 丸の内・・戸塚・・韓国・・そして、 戦後は、丸の内の郵便局にあったGHQの検閲課で働いていた。検閲っていっ ても、それは一般人の手紙だった。もう忘れちゃったけど、検閲項目が百二十項 目だったかな。 検閲のスタッフは日本人が多くて、我々はアドバイザーっていうか係長みたい なもんだった。  日本人では津田を出た女性が多かった。仕事は読み書きだけだったから、しゃ べれなくてもよかったんだろう。なにしろ、日本の英語教育は、英文和訳でも和 文英訳でも向こうの一流の大学を出た先生でも負けるぐらいの完ぺきな訳をする からね。 ぼくは日本語を良く知ってたから仕事は何も困らなかったけど、いつだったか、 冬の初めごろ便所へ行ったら、軍服姿のぼくたちと違って背広を着てヒゲを生や した人と出合ったんだ。  その人、いつもブラブラしているの知ってたけど、それが「キミ、キミ。君の 名前は」って言うんだ。そこで「ジョン・ミトワです」って言ったら、「君は日 本語よく知ってるっていうけど、株式(?:聞き取り不明瞭)のこと解るか」って 言うんだ。そんとき、ぼくはブルブルって寒気がしたね。日本語知ってるもっと すごいのがいるって。それが検閲のボスだったんだ。彼のお父さんが長崎にいて 日本のことよく知っていて、戦争が始まるとシカゴの基地の中に日本語の学校を つくって教育してたんだって。そういうのが大勢いたんだな。ほんとに大したも んだった。  検閲のほうは民生のことばかりだった。例えば、知人間の手紙で「最近うちの 子供の下痢がひどくてしょうがない・・・・」なんていうのがあると、それはその付 近の衛生状態が悪いことだからすぐに医者を派遣して処置するの。 その後、戸塚のPXの倉庫に四年ぐらいいたかな。場所は今の日立製作所のと ころ。それから朝鮮動乱が終わって韓国にPXができるからって韓国の仁川に行 くことになったの。一時期、四年ぐらい仁川から南へ五十キロメートルにあった 烏山(オーサン)空軍基地のPXにいて仁川にまた帰ってきた。仁川市からは、 「名誉市民」の称号をもらった。 それから定年になって、六十五歳。 軍人の定年はもっと早かったけど、ぼくの一年前は六十二歳、その後だんだん とのびてて七十歳になった。そして今は公務員に定年はないんだ。その代わり、 毎年医者の健康チェックを受けるんだが、ぼくだって足の他は何にも悪いところ はないから、ずっといただろうな。 第 五 話 ボトル地震計 ここに水を半分入れたペットボトル置いてあるけど、これはぼくの地震計だよ。 地震が来ると水面が動いて人体に感じない程度のでもわかるようになってる。  関東大震災に会ってるからぼくは地震に敏感で、一月十六日の阪神大地震の朝 も地震が起こる前に起きてた。何だか身体が変だからすぐにテレビ付けて気象庁 に電話したんだ。そうして三十分後にもう一度かけたら、電話はもう一杯で通じ なかったけど。 この前に飼ってた犬は、地震が来る前にぼくを起こしたね。動物って敏感なも んだよ。ところが、そう言っちゃあ何だけど、人間ぐらいいい加減な動物はいな いね。  アメリカ人が言ってるね。いまの村山さん、社会党にいたときはアンポとか自 衛隊とか原子力とか何とかいろいろ言ってたのに、今そんなこと何にも言わなく なった。社会党がこんど連合になって、そしてフヌケになっちゃった。社会党に 期待して票を入れた何百万という人を無視してノーと言うから下部組織だって混 乱するし、だから減っちゃったよ。 いま沖縄で起こってる問題だって、自分に信念があるんならはっきりモノを言 えばいいんだよ。「ヤンキー ゴー ホーム」って。でもネ、ほんとに今、ヤンキ ー ゴー ホームでいいのか、ヤンキー ゴー ホームでだれがねらってると思う? ほんとにアメリカが日本から帰ったら、日本は三年持たないだろうって・・・・。 韓国と北朝鮮が一緒になる、ロシアが原爆持っている、シナが原爆持っている。 そういうのがずっと来たら・・・・もし米軍がいなかったら日本はどうなっちゃうと 思う? 村山さんもう少し自分の信念もってさ、自分が旗を振って「ヤンキーゴーホー ム」って言やぁいいんだよ。社会党の信念がそうだったんだもの。それが他の政 党と一緒になったらさ、アイマイだよ。 第 六 話 「アイマイな日本」と「私」  全体がアイマイなんだ、ノーベル賞の大江健三郎が世界の一流人が集まるとこ ろで講演して、日本はアイマイだって言うほど・・・・・・。今まではそれで済んだん だ。でも、いま問題の大和銀行問題だって、頭取とか何とか退いて平取締役にな っても大和銀行には残るわけだ。それがアメリカにはわからないんだ。アメリカ だったら、即座にこれ(クビ)になっちゃう。そうやって社会を混乱させる罪っ ていうのは大きいんだ。  戦争当時の慰安婦の補償。あの金を募金で集めるっていったって、いま何分の 一しか集まっていない。その問題のとき罪があった人が金を集めるんならいいけ ど、いなかった人に向かって集めようとしたって、そりゃあムリよ。そんなこと 言ってたら、政治家そっぽ向かれちゃう。だから国が困ったって、結局は赤字国 債で六十年間の借金をして、いま借金の総額が二百何兆円かになっちゃった。ア メリカには赤字があるといってるけど、日本にだってこんなに赤字があることを、 新聞だって一言も書きゃあしない。そういうことを、新聞で読んでないんだよ。 ぼくは政治のことが好きだから、よくテレビ見てる。そしてNHKが間違った りするとすぐに電話する。国会の予算委員会なんか三日のうち一日しかやらない けど、電話すると、むずかしくてだれも見ないんだって。どうせだれがやっても 同じになってるんだろうな。  神奈川県だって前の知事なんか、初めのうちは県庁に国旗揚がってなかった。 日の丸は日本国旗じゃあないって揚げなかった。ならば日の丸がダメなら代わり の旗を出してこれにしよう、って言えばいいのに、言わなかった。 ボーイスカウトでもだれかが言ってたな。B-P、B-Pってみんなが言うけど、 ベーデン・パウエルなんかもう古いよ、って・・・・。でも、古いって言うんなら、 新しいのはどれか見せればいいんだよ。それができないで何でもアイマイの「ぬ るま湯」で済ましちゃう。 まあ、日本はそれで済んできた。でも、今後国連の常任理事国にでも入ったら 大変だよ。イエス、ノーを自分で決めなきゃあなんないんだもの。拒否権だって あるんだもの。今まではまわりを見てるだけで、横を見てイエス、ノー言うんじ ゃあなく、今度ははっきり手を挙げて自分で決めなきゃいけないんだ。 だから、今の原爆実験でフランスが何だかんだと言われているけれど、シナの 実験のほうはだれも何とも言わないで・・・・。グリーンピースだって船であっちば かり行ってるけど、シナに上陸したらツブされちゃうんだろうな。 第 七 話 後藤新平総長と三渓園のスカウト大会 ボーイスカウトのことだって、いろんな歴史があるんだから、それを大切にす るのが常識だよ。こないだ横浜で四十五周年記念やったけど、あの開会式で壇の 上に上がってマイク持って、後ろの方に聞こえるかどうかの声で中身の何にもな い美辞麗句並べたって、それはボーイスカウトじゃないよ。 ボーイスカウトは真面目にね、四十五周年ならその歴史の厚みにふさわしいこ としなきゃあ。  戦後初の大会を三渓園でやったとき、なぜ会場を三渓園にしたか? それは、ぼくも参加してたけど、大正十二年に初代総長の後藤新平先生をお招 きして横浜のスカウトが大会をした由緒があったからなんだ。  そのとき後藤総長は、三渓園に入って右手の原(三渓)さんの別荘へ行く坂の 右角の堀立て小屋に泊まった。それは渋板を張った四畳半ぐらいの広さで、総長 が泊まるために建てたということで長いことそこにあったから、何とかして那須 の野営場へ移そうとしたんだけど、そのとき韓国へ行くことになっちゃった。 その三渓園で、戦後最初のスカウトラリーをしようとしたとき、市警少年課の 小田さんと二人で三渓園へ行ったら主事がいて、後藤総長のことを話したら奥か らアルバムを三冊出してくれたのを見てるんだ。  震災直前の三渓園で後藤総長が横浜のスカウト達とキャンプをしたことを日連 事務局長だった根岸さんは知ってるよ。 それでぼくは、日連や県連の組織を通して三渓園のアルバムのことを調べたい と思ったけど、だれもその話に乗ってはくれなかった。 早くだれかに手伝ってもらって、是非とも後藤新平総長と横浜のスカウトとの 歴史的な出来事を見つけ出したいな。 第 八 話 裏方を往く 横浜のシンフォニーオーケストラ、あそこでタクトを振ってた小船はぼくと同 い年で、元は横浜マンドリンクラブをやっていたんだ。そこへ、彼のワイフの姉 さんが片付いた医者の八十島が、慈恵でクラリネットをやっていて小船の方に入 りたいっていうんで、明治学院にいた飯島というのと連れてったんだけど、それ が「横浜シンフォニーオーケストラ」の始まりというわけだ。 そうやってぼくは、裏方を行く方が好きなんだ。だから、勲章をもらったとき、 神奈川新聞が「裏方を歩いて何年・・」って書いてたな。  表に出るのはやなんだよ。だから、昔のこと書きたいけど自分では書けないん だ。県連史のときもみんなが資料持っていくけど何にも載らない・・・・ぼくはそれ を伝えないと済まないんだ。 ぼくのことは、FTやYGがよく知ってるよ。でもYGはOB会にも出てこな いし・・・。 ところで、大ニュース。  「赤い靴」がぼくを表彰してくれるんだって。毎年一人選ばれるんだけど、今 年はぼくがアポイントされたんだって。  来月の十二日午後一時から「赤い靴」の前でね・・・・。おとといの夜十時半ごろ、 HTから電話があったんだけど、それはもうめったに貰えないよ。二百何万もの 市民がいるのに、このぼくがもらうなんて。ありがたいことだよ。これも、ボー イスカウトやってたからだと思うよ。 第 九 話 オールドスカウト それにしても、こっちのスカウト倶楽部は高いし会誌も出ないけど、東京の日 本ボーイスカウトOB会は質素だけど、会報は年二回ちゃんと来るし、今年も島 中さんの世話で金沢で楽しいパーティーをやったよ。 そのとき、三島(通陽元総長)さんの娘さんも来ていて、昔語りをしたっけ。 それは、戦後新宿御苑でやった第二回ボーイスカウト大会のときにガールも参加 していたときのことだったけど、懐かしかったな。  三島先生が亡くなったとき、日比谷の公会堂で葬儀をしたけれど、ぼくは韓国 にいてその日のジャパンタイムスの訃報記事で知ったんだ。もう驚いて、上官に 日本のボーイスカウトのこういう偉い人が亡くなって、どうしても葬儀に行きた いって言ったら、烏山の空軍基地に電話してくれて立川まで早い超音速の戦闘機 を特別に出してくれたよ。立川まで四十五分。それから会場に急いだら遺族が泣 いて迎えてくれたよ。 スカウト運動の復活に尽くした三島先生のそういうことやいろんな歴史だって、 もうだれも知らないんだ。 でも、五隊の連中は知ってるよ。彼らは第一回の日比谷公園の大会から出てる けど、当時は日章旗もないので、シーツに赤インクで日の丸描いて持ってったん だ。その旗は、今でも五隊の本部だった山手ローバースクラブにまだあるかな。 彼らは、今でも山元町の水島が世話してミーティングをやっていると思うけど、 ぼくは足が悪くて行けなくなっちゃった。あそこの松の湯だったか梅の湯だった か、交番の前の風呂屋で毎月集まってると思う。前の八十歳の時は十五、六人来 てくれたかな。  昔はKGやMZとかいろんな連中が毎晩のようにここへ遊びに来て、まるでカ ブのデンみたいだった。 (ボーイズライフの)ヒルコートが初めて来日した昭和二十四年のとき、東京 会館で歓迎会をやったが、そのときは丸の内に勤めてたからぼくもいた。 そのとき、三島さんが「米国はいいね。米国ではボーイスカウトで二級以上に いた人は、刑務所には一人もいない。日本も早くアメリカみたいになりたい。」 って言ったのを、ぼくははっきりと覚えてる。アメリカも今はそうじゃないけど。 第 十 話 ほんとに大切なもの  前にも言ったかも知れないけど、何年か前サンフランシスコの大地震やピナト ゥボ山の噴火のとき、最初に駆けつけたのはボーイスカウトだった。だれにも、 どこからも言われないで、自分達の行ける所へパッと飛びたって、向こうの手足 になって本当のボランティアとして働いた。  ところが、雲仙普賢岳の噴火災害のとき、横浜から五、六人のスカウト達が行 ってくれたが、県連に連絡したら、「そんな売名行為なんてやめてくれ」って言 われたって。青年達がそう言うんだ。 スカウトのいちばん大切なつとめからそんなにも外れてしまった今の姿が悲し いんだ。 ボーイスカウトはそんなものじゃあない。それを思うと死んでも死に 切れない。 ぼくが、五隊にいたころは、県連の財政委員長を二度やって健康安全委員長と 野営行事委員長もやった。野営行事のときにやった須雲川の県キャンポリーには、 三島先生も駆けつけて参加隊全部のサイトを回ってスカウトたちに声を掛け激励 された。 スカウト運動に必要なのは「人の和」だよ。 人の心を大切にしないとダメになっちゃうよ。そうして、オウムだって何だっ てみんなウヤムヤになってつぶれる・・・・なんて、全くやりきれない。 最近はボーイスカウトの古い人に電話してよく話すけど、組織の中はスカウト 時代を知らない人ばっかりで、少年達に託すこの運動の大事な部分を知らない、 肩書きばかりで姥捨て山みたいだ。また、役に立っても、今は使い捨てだもの・・。 十一月十二日に「赤い靴」の人たちが表彰してくれるっていうけど、ぼくはそ れを「きじ章」以上の名誉だと思ってるんだ。